ゴーギャンという画家が目指した絵画とは?ポール・ゴーギャンの世界観

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油絵具で描く絵画作品
油絵の具で描く絵画作品

今回はポール・ゴーギャンについて話していきたいと思います。彼は19世紀中期から20世期初頭までいきた画家です。絵画の本質を探究した稀有な巨匠で、今日でも多くの作家やファンに愛されています。

作品はタヒチの風景や女性像を描いたものが有名で、見たことがあるひとも多いのではないでしょうか。

彼がどんな流れで作品を描いたのか、何について考え、何を求めて表現しようとしたのか見ていきたいと思います。

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目次

・もともとは不動産仲買商として勤めていた
・仕事に飽き飽きして画家に専念することを決意
・タヒチに魅了され、新たな表現の可能性を見つけに旅立つ

・もともとは株式仲買商として勤めていた

ポール・ゴーギャンは1848年にフランスのパリに生まれました。一般的な中流階級の家庭に生まれました。

ゴーギャンは子供の頃から人とうまく付き合うことが苦手で、たびたび母親に心配をかけていたそうです。

そんな息子を心配した母はゴーギャンに後見人としてギュスターヴ・アローザを紹介します。アローザは有能な実業家でまたアートコレクターでもありました。

そのご縁でゴーギャンはアローザから美術に対する審美眼の手ほどきを受け、絵画に対する興味を持ちはじめます。十代後半からアローザの紹介で絵の勉強を始めます。

やがて大人になり結婚もし、株式仲買商として働き始め、日曜画家として絵を描いていました。ここから10年間は一見平穏な日常を過ごすことになります。

・仕事に飽き飽きして画家に専念することを決意

1883年、ゴーギャンは明確な理由を明らかにすることがないまま絵に専念することを決意しました。おそらく仲買商の仕事に興味があまりなかったのでしょう。。

とは言え、絵はそんな簡単に売れることもなく、全く売れない状態が続きます。そのため、パリよりも物価の安いルーアンへ家族と一緒に引っ越すことになりました。

この頃、ゴーギャンの絵は印象派の影響を色濃く受けていて、しばらくこの傾向が続いていきます。

「カルセル街の雪」(1833年)

そんな最中、ゴーギャン一家はゴーギャンの妻の実家に一時滞在します。

妻の実家はデンマークにあり、そこはアートなどをたしなむよりも、お金本位の地域だったので、ほとんど収入のないゴーギャンは嫌われていました。

このころに描かれた作品は室内や静物などが多かったのですが、絵の中には人物と画家との断絶がそれとなく表現されていました。

故に絵の構成としては、人物が後ろ向きであったり、一部しか描かれていなかったりします。

また画家と周囲の人達との間に机などの隔たりがあるなど、作者と周りの空間との心理的距離が見て取れます。

「室内」(1881年)

これがゴーギャンの後の絵の方向性を決定づける一つの要素となり、印象派からの脱却が始まります。。。

次第にゴーギャンは平面的な色面を構成するように人物や景色を描きます。この直接的なきっかけはパナマ旅行だと言われています。南国の鮮やかな世界が明暗よりも、色そのものの輝きに見えたのでしょう。。

「アルルの庭で」(1888年)

ゴーギャン自身は明確な主義を唱えたわけではないのですが、後にこれは区分主義総合主義と言われるようになります。

つまり、奥行きよりも線と面を色鮮やかに表現して、描き分ける方法です。また何か描かれる物を説明するより、全体の構成に重きを置く意識に近いと言えます。

他にもステンドグラスや浮世絵などの影響も受けているといってよいでしょう。

ゴーギャンの思想は当時の前衛絵画を探求した若いアーティストに非常に感銘を与えました。それでもゴーギャンの作品はスタイルに収まりきらない、もっと本能的な作品と言えるでしょう。

というのも説明の付かない筆遣いや構成が絵画に用いられることもしばしばあるからなんですね。

・タヒチに魅了され、新たな表現の可能性を見つけに旅立つ

ゴーギャンは都市化するパリやヨーロッパに大してどこか危機意識を持っていました。また画家やアーティストも都市に集中していたので、絵の作風も一定の共通性がありました。

それに対してゴーギャンは原始的な造形や環境に憧れをより強めていきます。

その思いは当時秘境であったタヒチへとゴーギャンを向かわせます。人見知りではあったものの、一生懸命に理想とする光景を作品に定着させていきます。

タヒチでは女性や動物、自然をモチーフにし、今で言うエキゾチックな雰囲気を追求しました。

「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」(1897〜98年)

より奔放になり、背景はより装飾的になっていきました。

「タヒチの3人」(1899年)

タヒチで描いた作品をフランスに持ち帰って個展を開催したのですが、やっぱり時代が追いつかず、売れませんでした。それでもゴーギャンはタヒチや南国の環境に絵画の理想を求め続けていきました。

まとめ

なんとも孤独な画家のイメージがあるゴーギャンですが、初めて何か新しいものを作り出すときは必ず多くの反対と無関心に遭い、ほんの一部の人にしか受け入れらないのはよくあります。

でもそれを続けていくことでしか受け入れられるようにならないことも真実なのでしょう。

現代では昔よりもスピード感覚が速まり、続けていれば生きているうちに画家の芽が出るチャンスが多くなってきているように感じます。

美術に限らず、ぜひ何かを挑戦してみてはいかがでしょうか。。

最後までありがとうございます。また次回会いましょう。楽しい1日をお過ごしください。

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