どうも!Houichiです。絵描き+美術講師として発信をしています。
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サルバドール・ダリは20世紀の美術界で活躍した矛盾に満ちたミステリアスな画家です。。
彼は最も物議をかもしたシュールレアリスムの画家として有名ですが、、実際のころは色々な芸術概念に影響を受けているんですね。また古典を重んじるだけで無く、前衛芸術や科学も学ぶ姿勢にアーティストとして見習うところが多いと思いますね。
ぶっちゃけ彼の絵は一体どのような発想から生まれたんでしょうか??実はコンプレックスがダリの人生と作品において物凄く重要な鍵になってきます。。では特徴的ストーリーと彼の作品を交えて紹介していきたいと思います。
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目次
・3つのコンプレックス
・優秀すぎて尖っていたため大学を退学
・ガラとシュルレアリスムとの出会い
・アンダルシアの犬でのダリの功績
・偏執狂的批判的方法って?
・ダリ、シュルレアリスムから卒業し、アメリカでスターになる
・スペインでアクティブ且つ哀愁のある晩年を過ごす
・3つのコンプレックス
サルバドール・ダリ・イ・ドメネクは1904年にスペインはカタルーニャのフィゲラスに生まれました。父は公証人と言う公務員で共産主義の無神論者で、母は敬虔なカトリック教徒でした。このような家庭に生まれたおかげで金銭的豊かさに恵まれた幼少期でした。。
*ダリの幼少期
しかし、金銭的豊かさは必ずしも、精神的安定をもたらすものとイコールではなかったようです。。。1つにダリが生まれる前に母は同名の兄ダリを生んでいて、すぐに亡くなっていたんですね。その一年後にダリが生まれたものだから、両親は兄の生まれ変わりと盲目に思い込みました。これがダリにとって猛烈なアイデンティティの喪失を引き起こさせたんです。。ダリのコンプレックスの始まりでした。。。
これを乗り越えるためにダリは自尊心と自己愛を強く持つことで、コンプレックスを克服しようとしたんですね。。
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2つ目は異性恐怖症です。これは父親からのパワハラにより起こってしまいました。。ダリにとって父は生涯を通じて不和であり、逆らえない存在でい続けました。そのきっかけとなったのが、父からの梅毒の性器の写真を見せられたことです。
父は仕事のストレスからか、それを晴らすかのように少年ダリに性行為によって引き起こされる恐怖を植え付けたんです。(方法が謎すぎる 苦笑)これが原因でダリは一時期EDまでも引き起こしてしまいした。
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3つ目はマザーコンプレップス、いわゆるマザコンといものです。。
父のパワハラを癒してくれるのは母の愛でした。母も以前は画家をしており、若きダリの絵をいつも褒めてあげていたんですね。
6歳の時の油絵、すでに非凡な才能が見え隠れしています。特に構成感覚が養われている凄さ。。
そんな母もダリが16歳のときに世を去りました。突然のことにダリはここで精神的ダメージを受けました。これが原因でダリが母親像を求めることは生涯を通して、続いていきます。。
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ここで言いたいことはダリの作品の多く(特に初期から中期)がこの少年時代に引き起こしたコンプレックス、言い換えると深層心理に隠された問題がテーマとなっているんですね。ここを理解するとダリの作品がよりリアリティーを持って見えてくるかも知れませんね。
・優秀すぎて尖っていたため大学を退学
父との仲は悪かったのですが、それでもダリが絵を学ぶ意志を尊重しました。幼少期の重要な出会いとしてピチョットとの出会いがあります。
ピチョットは当時すでにスペインで成功した画家で、彼はダリの才能をいち早く気づき、彼を絵画制作の旅行に連れて行ったんですね。
初めダリは印象派に興味を持っていましたし、また小説や作詩も嗜んでいました。(多才。。)そしてピチョットはそんな才能あふれるダリをフィゲラス市立デッサン学校で学ぶことを勧め、実際にダリは入りました。そこでアカデミズム絵画の楽しさに目覚めのめり込みます。アカデミズム的な描き方はその後のダリの作品に最後まで影響を及ぼしていきました。。
やがてマドリード美術学校(美大みたいな所)入学し、さらに画力と人間関係を育みます。この美術学校は名門で事実、映画監督のルイス・ブニュエルや、劇作家のフェデリコ・ガルシア・ロルカなどの有名作家を輩出しています。
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とは言うものの、描き方に興味はあってもアカデミズム絵画の様式やイメージにだんだん飽きていきました。当時やんちゃだったこともあり、そしてとうとう我慢できずに、暴動や講師否定をしたりして、退学させられたんですね。。。
でもダリにとっては大した問題にならなかったと言うこともまた事実でした。
・シュルレアリスムとガラとの出会い
「燃えるキリン」1937年
ダリは初めすぐにシュルレアリスム運動に加わることをしませんでした。と言うよりも受け入れてもらえなかったとも言えます。これ以前にダリは色々な主義の表現形式を真剣に学んでいました。奇行やワガママなイメージとは裏腹に彼は自分の学びに対しては誠実だったんですね。
例えば当初前衛であったピカソのキュビスムやスペイン古典に立ち返り、画家ベラスケスにも発想のヒントを探し求めていました。
そして色々試行錯誤しているうちにシュルレアリスムの影響を受け作品テーマが確立していくんですね。
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シュルレアリスムって?
シュルレアリスムは同時代の精神科医であり、精神分析学の創始者のフロイトの理論に基づく所が多いですね。ざっくり言えば、無意識や深層心理、夢(先ほど出ましたね)をさらけ出し、そこにこそ人間のあり方があるのでは??と言うことを提唱した人です。
ジグムント・フロイト(1856〜1939)
この影響を受けて詩人のアンドレ・ブルトン(1896〜1966)が1924年に「シュルレアリスム宣言」をして、事実上シュルレアリスムを創始しました。
「まさに深層心理に潜むコンプレックスを肯定するものではないか!」とダリも共感したのでしょうね。つまり、フロイトやシュルレアリスムに傾倒して行ったことは至極と当然のことだったんです。
そしてダリは1929年に正式にメンバーとして認められ、あらゆる方法でシュルレアリスムにのめり込んで行きます。ただ上等手段だった自動書記には全く興味を示しませんでした。。。ダリは保守的なアカデミズムの手法と急進主義のシュルレアリスムの混合のバランスに自分の絵画があると思っていたことが理由の一つでしょう。
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ガラとの出会い
そしてシュルレアリスムメンバーになってしばらく経ち、ダリ25歳のころ、メンバーや画商を通じて生涯の伴侶であるガラ出会います。これはダリの運命という航行の方向を大きく決めるものでした。
ダラの愛情によりダリは異性恐怖症が弱まり、制作にも自信をつけていきました。またガラは名プロデューサーでもあり、彼女のおかげでダリというイメージは芸術の枠を飛び越えて、一般大衆にまで広まり、今のダリのイメージキャラクターが出来上がって行ったんですね。
男性にだらしない恋愛体質(アーティスト限定、、、)を除けばガラはダリに大変献身的であったと言えるでしょう。それでもダリは彼女を母親的存在としても見ていた面もあり、ガラの行動には寛容でした。奇妙な運命で結ばれた二人ですよね。。
・アンダルシアの犬でのダリの功績
ロバとピアノ
ダリは様々なことに興味を持っていました。その中にはデザインや映像制作などが挙げられます。特に有名なのが映画「アンダルシアの犬」(1928年完成、1929年公開)。この映画はダリの美術学校の同級生である映像作家ルイス・ブニュエルが監督となって制作されました。
ルイス・ブニュエル1900〜1983
ダリはこの映画の中の部分的な演出や舞台セットのアイデアを提供しました。その中の眼球を切り裂く演出(ロバの目を使った)の案や腐ったロバをピアノの上におく演出が大変受け、映画は大盛況でした。
目を切り裂く直前のシーン
この映画もそれまでの映画のお決まりのストーリ構成や内容を無視し、意味の分からなさや矛盾を前面に押し出し、まさにシュルレアリスムを表現したものなんですね。
・偏執狂的批判的方法って?
「ビキニの3つのスフィンクス」1947年
ダリはシュルレアリスム中で重要な「偏執狂的批判的方法」を発明し、多用して絵を描いていました。また別の言い方をすれば、妄想とも言えます。あるいは空想なのか。
例えば「25歳の人でも、牛乳を毎日のめば身長2メートまで伸びる」とか「優しくされたから、きっと私のことに気があるんだわ」とか盲信することに近いですね。これをイメージに当てはめたということです。
またダリはミレーが描いた「晩鐘」に登場する女性が鐘に向かって祈りを捧げる場面を夫婦の子供が亡くなったことを悼んでいる絵であるという病的な解釈をしたんですね。
ミレー作「晩鐘」1857〜1859年
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これがさらに派生し彼は「ダブルイメージ」を発明しました。これはあるイメージがそれ一つでは無く他のイメージにも同時に見えてくる効果のことで一つの描き方に多様な解釈の可能性が生まれるんですね。「見えない眠る女、馬、ライオン、その他」
これはあるものを見たときに、その人の記憶の違いによって様々な見方ができることを肯定したい、つまり深層心理を表面化したいダリにとって必要な表現法だったんですね。
そして偏執狂的批判的方法の代表作は「記憶の固執」(1931年)です。この絵画はダリの作品の中でも特に有名な作品で、この作品では溶ける時計がダブルイメージとして描かれています。
「記憶の固執」1931年
ガラが食べているカマンベールチーズがとろけている様子を見てアイデアが浮かんだみたいです。硬いものが柔らかくなる様子に過剰に執着があるダリにとって、時計とチーズがうまく無意識の中でリンクしたようですね。。
そしてダリはパリやニューヨーク、ベルリンなど様々な場所で活動し、シュルレアリスムの代表格となっていきました。
「ナルシスの変貌」1937年
・ダリ、シュルレアリスムから卒業し、アメリカでスターになる
1930代末から第二次世界大戦の風潮が強まり、ついに始まってしまいました。そうした中かで、シュルレアリストたちは共産主義アーティストと結束するようになり、戦争反対をスローガンの一つに掲げていたんですね。ダリはそのひどく政治色が濃く反映された思想に嫌悪を示すようになり、また彼が愛国主義で明確な戦争に対する意見を示さなかったためシュルレアリストから除外されてしまいました。
ダリはそれに対して心残りは一つもなかったようです。それでも絵の考え方はシュールレアリスムの形式を残しつつ制作を続けていきました。。。
この頃からアメリカでもダリの人気は出てくるようになり、ニューヨーク近代美術館はすでに「記憶の固執」を所蔵していました。やがて第二次大戦の勃発を逃れるようにアメリカに移り住みました。。
アメリカでは名声だけでなく富も手にしたダリは絵画制作の他に、執筆や、舞台装飾、服、食器のデザインなど様々な分野で活躍しました。雑誌記事やテレビにも出るようになり、生活はさらに華やかになりました。。
椅子のデザイン
なんと「チュッパチャップス」つのデザインも。。
ディズニーの映画撮影にも参加(未完に終わる)
毎晩のように仮装パーティーをしていたんだとか、、(いろんな意味でヤバイ人です)。
・スペインでアクティブで哀愁のある晩年を過ごす
そんなダリもやはり故郷が恋しく1949年にスペインのポルトリガドに戻ります。
この頃から科学や数学をの考え方を絵画に取り入れるようになりました。特に素粒子や量子力学の物質の可分性が示唆されるようになって彼の作品では粒子や幾何形態が取り入れられるようになりました。
「記憶の固執の崩壊」1954年
それと同時にイタリアルネサンス美術に対する関心も強くなり、妻であるガラをモデルに宗教絵画も多く描くようになりました。
「ポルト・リガトの聖母」1950年
しかしガラとの仲が次第に疎遠になり、別居するようになりました。それでも妻を大事にしていたダリは鬱になりながらもガラにお城を立ててあげて住まわせます。
結局どちらも、ある程度関係がギクシャクしていたのでちょうど良かったと個人的には考えています。
この時期のダリの最も大きなプロジェクトといえば「ダリ美術館」を建てたことでしょう。デザインはネオ・バロック形式を取り入れ、彼の作品に出てきそうなオブジェも一緒に設置した奇妙な美術館となっていますね。。スペインではあの有名なプラド美術館の次に人気の高い美術館だそうです。。
そしてダリにとって最も悲しいできごとはやはり、ガラが亡くなったことでしょう。ガラが亡くなった後は身の回りの管理や仕事、財産の管理が疎かになり、お金がすぐに底を尽きかけたそうです、、、それとは裏腹にダリの名声は広がり、生きている間も個人のコレクターがダリの作品展を開いていました。。
そして1989年ダリは84歳でこの世を去ります。ダリの遺骨はダリ美術館のガラが描かれた絵画のそばで今も眠っています。
まとめ
良くも悪くもダリは活力に満ちた人生を送ったといえます。そして僕自身、作品制作において意味は違えど一定の図像的な影響受けている作家の一人でもあります。また彼が僕たちに与えるインパクトは彼を知らない人でも感じることができるほどです。ダリは間違いなく20世紀で最も個性豊かな画家の一人でしょう。
最後までお読みいただきありがとうございます。また次回の記事でお会いしましょう。楽しい1日をお過ごしください。