どうも!Houichiです。元予備校講師で、絵を描いたり、YouTubeで動画を配信したりしています。
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ピーテル・パウル・ルーベンスほど西洋のバロック時代において工房の力を最大限に活用した画家はいないと言っても過言ではないでしょう。
修行時代にイタリアルネサンスから多くを学びつつも独自のスタイルを生み出し、発展させたバロック時代の巨人の生涯と彼の作品を交えて見て行きたいと思います。
目次
・人を味方につけるカリスマ画家、ルーベンスの生涯と偉業
・初期の傑作「キリストの昇架」
・人の皮膚感と生の肌色を体験させる画家
・人を味方につけるカリスマ画家、ルーベンスの生涯と偉業
ピーテル・パウル・ーベンスはバロック時代の画家の中でも、生涯を通して影響力を持ち続けた一人と言えます。これも彼が持つ人を魅了するカリスマ的人柄や教養の高さ、外向性の高さ、人望の厚さ、多くの人々の協力と応援によるものが大きいでしょう。。
「ピーテル・パウル・ルーベンス」
そして絵画作品においても明部と暗部の質感の差を極端に描き分け、絵画様式もイタリア・ルネサンスに学びつつ、よりダイナミックに変化させようとした点も挑戦的です。
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ここでルーベンスが生まれた頃に遡ってみましょうー。
ピーテル・パウル・ルーベンスは1577 年6月28日にドイツのヴェストファーレン州のジーゲンに生まれました。この日は聖ペテロと聖パウロの祝日の前日にあたるんですね。
後に親の故郷であるフランドル地方のアントウェルペンに帰ります。
アントウェルペン↑
ルーベンスの父ヤン・ルーベンスは比較的裕福な中産階級の親の元で育ち、司法行政官や法律顧問として働いていました。このような比較的裕福な家系に生まれたピーテル・パウル・ルーベンスは教養を身につけるのに何一つ不自由がない環境で育ったことになります。。ラテン語も難なく使いこなせていました。
<天職としての画家
ルーベンスが画家になるに至った道は当時極めて異例でした。と言うのも、16世紀末のフランドル地方では江戸時代と同じように社会構造は細分化され、特定の職に着くには生まれた家柄や師弟関係に左右されていたんです。。
つまり誰でも芸術的な仕事を行うことができたわけではなかったんですね。芸術家の祖先がいない上流階級のルーベンスが画家を志したのはとても珍しいことだったんです。
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幼少期ルーベンスの家には版画作品がたくさんありました。この版画作品の模写を通して、彼は芸術に興味を持ち始めます。そして、画家になることへの熱意に負け、母のマリア・ペイペリンクスはルーベンスの申し出を受け入れました。そして1592年ルーベンスを徒弟奉公(絵画工房への入門)に出します。
<3人の師
ルーベンスは生涯を通して、3人の師に絵画を学びます。
1人目はトビアス・フェルハーヒトでした。彼は風景画家として名声を博していました。ルーベンスはここで絵画の基本と工房のしきたりを学びます。またイタリアへの憧れを抱かせた最初の師でもあります。
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2人目はアダム・ファン・ノールト、彼は人物画を得意としました。どちらかと言うと有能な教育者として、語られているようです。ここでルーベンスの人物画に対する興味はますます高まります。
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3人目はオットー・ヴェニウスでした。彼は当時ルーベンすが住んでいたアントウェルペンの最も優れた画家でした。ここでルーベンスは絵画技法の基本や人物画家の格さを教え、そしてイタリアの修行旅行への関心をルーベンスに強く促しました。
<イタリアへの修行旅行
1600年5月にルーベンスはイタリアへ旅立ちます。当時イタリアで若い画家を受けれる団体は存在していなかったんですが、幸運の巡り合わせが続き、ルーベンスは貴族からの紹介で北イタリアを治めていたマントヴァ公の支援を受け、宮廷で職につきます。
「マントヴァ公」
この援助のおかげでルーベンスはイタリア各地に旅し、作品鑑賞や模写を許されました。
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そしてルーベンスはイタリアにいる間に3つの教会で祭壇画を描きます。
ルーベンスはこれらの祭壇画の制作に取り組むために入念に下絵を描き、また幾つかの巨匠たちの作品の模写を通して自分の様式を模索しました。
そして完成作品にはヴェネツィア派の画家達やラファエロ、ミケランジェロ、カラヴァッジョの影響が見られます。まらイタリアの初期バロック様式を確立した一人であるアンニーバレ・カラッチも敬愛していました。
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イタリアでの2作目の「三位一体を礼拝するゴンザーガ家の人々」
「三位一体を礼拝するゴンザーガ家の人々」(1604〜1605年)
「キリストの洗礼」
https://www.louvre.fr/jp/oeuvre-notices/《キリストの洗礼》-1引用元
「キリストの変容」の三部作はヴェネツィア派の色彩法やミケランジェロの様式を取り入れた、若きルーベンスの試行錯誤が見られる過渡期の作品です。
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早くも実力が認められ始めたルーベンスですが、1608年10月に準備する間もなくイタリアを去ることになります。。母の危篤の知らせを受けたためなんですね。
ひと段落した後にイタリアに戻るつもりであったルーベンスですが、イタリアの政治情勢の悪化により、断念せざるを得なくなりました。そして、地元のアントウェルペンに活動拠点を置きます。
<地元アントウェルペンでの活動
アントヴェルペンでは古典学者である兄の助けを借りて、ルーベンスの名はアントウェルペンの上流社会にすぐに知れ渡りました。こうして自信に満ちた地元での作家活動が始まります。
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地元でのルーベンスは市長のニコラス・ロックスと小間物商組合で最も有力なアートコレクターであるコルネリス・デル・ファン・へーストの援助により、多くの作品の注文を受けます。
「コルネリアス・デル・ファン・へースト」ヴァン・ダイク作
また家族や親友の助けもルーベンスの成長に欠かせませんした。
そして1609年10月に地元、アントウェルペンでルーベンスは書記官の娘で、18歳のイザベラ・ブラントと結婚します。
「ルーベンスとイザベラ・ブラントの肖像」(1609〜1610年)
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活動も軌道に乗り、ルーベンスは版画やタピスリーの生産にも尽力します。版画では職人達に明暗法の原理から指示を出し、またタピスリー制作もグループをまとめ、監督としての才能もここで発揮することになります。
<ルーベンスの偉業
ルーベンスは当時フランドルでも最大の工房を経営していおり、名声は近隣諸国にも行き渡るようになりました。。
画家仲間や弟子も多く、小規模な工房では抱えきれないほどの注文を難なく受け入れる程の度量の持ち主で、フランスやイギリスの宮殿の天井画や装飾画など、数々の大作を描き上げました。
まさにカリスマ的画家です。
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工房からは肖像画家として有名なアンソニ・ヴァン・ダイクを輩出しています。。
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また政治にも関心が高く、1628年スペイン滞在中にイザベラ大公妃の信任を得て、外交官としてスペイン-イギリス間の和平交渉で重要な役割を果たしました。
「イザベラ大公妃」
<晩年
1626年、ルーベンスは妻のイザベラ・ブラントに先立たれます。その悲しみを拭い去るために1628年に2度目のスペインへ旅立ちます。そこでの活動中にベラスケスと交流し、仲を深めました。
精神的にも安定し、スペインから帰国後、ルーベンスに新たな巡り合わせがありました。1630年、当時53歳のルーベンスは当時16歳のエレーヌ・フールマンとの再婚したんですね。
「毛皮をまとったエレーヌ・フールマン」(1636〜1638年)
このご縁により、ルーベンスは晩年、妻をモデルにした美しい作品をいくつか生み出しました。。。
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そして、1640年5月30日にルーベンスは63年の生涯を閉じます。。。
ルーベンスへの賛美の言葉も多く寄せられたと言われています。
・初期の傑作「キリストの昇架」
ルーベンスの初期の作品である「キリストの昇架」(1610〜1611年)1)はルーベンスのイタリア芸術の研究の成果とその後のルーベンス作品の作風が現れ始めた、完成度の高い作品です。
1)
そしてこの絵はトリプティクと呼ばれる三枚板を組み合わせて描かれており、現在はアントウェルペンの聖母大聖堂に収蔵されています。
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彼はこの作品ではヴェネツィア派の明るい色彩とミケランジェロが描く肉体美、またカラヴァッジョのような強烈な明暗の意識が画面を通して、伺えますよね。またキリストの体のねじれには古代彫刻のラーコーン像を参考にしているとも言われています。
そして、ルーベンスはこの作品を通して、フランドルやオランダ全体にバロック芸術様式の確立に貢献したんですね。。
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ちなみにこの作品はフランダースの犬の最終回で主人公であるネロと愛犬パトラッシュが一緒に観た絵の1つです。。
・人の皮膚感と生の肌色を体験させる画家
ルーベンスの油彩画といえば絵具の質感の描き分けと生々しいほどの肌の色味へのこだわりが魅力です。
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それまでもフランドル地方では絵具の質感への科学的研究はされていたのですが、ルーベンスはより大胆にその原理を応用させました。明部では暑い絵具のインパストを乗せて、皮膚の質感を表現し、影側ではほとんど透明色で薄く何層も重ねて静かに表現しました。
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また色彩では特に白人の白い肌の血色と、見え隠れする灰色の皮膚の変化を大変敏感に感知して描き分けることができました。
人物を描くならこう言う肌感を描けるようになりたいものですね。。
・まとめ
ルーベンスは良くも悪くも大規模な工房を最大限活用し、効率化した画家と言えます。そして画家仲間や弟子と一緒に生涯で2000枚の絵画を生み出した、リーダー格のある親方画家と言う印象も伺えたと思います。
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最後までお読みいただきありがとうございました。また次回の記事でお会いしましょう。楽しい1日をお過ごしください。