どうも!Houichiです。元美術講師で、絵を描いたり、You Tubeで動画を配信しています。
絵や美術を愛する全ての人のために発信します。
江戸時代幕末から明治初期にかけて日本に西洋の油画(油絵)が伝わってきました。そして、元祖油画を本格的に日本定着させた画家の一人が「高橋由一」です。
学校の美術の教科書でもよく取り上げられている「鮭」(鮭丸ごとを木板に吊るし、半身を切り開いたもの)の油画が有名ですよね。。
西洋文化が次第に流入していった幕末、油画はまだまだ情報が少なかったため有名な油彩画家がいなく、もちろん教えられる人もいませんでした。そんな時代に高橋由一は油画と運命的な出会いを果します。
果たして画家が求めた油画とはどのようなものなのか、またどういった物語が生まれたのか、彼の有名な絵画と一緒に見ていきましょう。。。
目次
・病弱な子だった由一が選んだのは洋画家の道だった
・多忙を極めた20代の青年は洋石版画に衝撃を受ける
・由一、ワーグマンと出会う
・由一、「天絵楼」を開塾する
・由一、フォンタネージと出会う
・由一の油画に対する理念と油画の特色
・由一、金刀比羅宮で滞在制作をする
・由一の功績のまとめ
・病弱な子だった由一が選んだのは洋画家の道だった
高橋由一は1828年江戸時代末期に下野国1万6千石の佐野藩藩士・高橋源十郎の嫡子(後継ぎをする息子)として生まれました。生まれた時は猪之助、後に仙之助、明治維新後に由一と称ぶようになりました。
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由一が2歳の時に不幸にも両親が離別し、弓、剣道の達人であった祖父源五郎のもとで育てられたんですね。また祖父の家業である弓、剣道の武芸の道を継ぐために由一は努力したんですんが、生来の病弱体質だったため、この道を断念し、絵の道を志すことにしました。
というのも、祖父の家にいる傍、9歳の時に藩主の堀田正衡の元につかえ、洋画や蘭学を教わります。また12、3歳の時、堀田正衡の元へ出入りしていた狩野洞庭や狩野探玉斎にも絵を学び、その画才を磨いて行ったんですね。
その後も絵師に北派系の絵を学んだりするんですが、仕事が忙しすぎるため、満足に絵を学ぶことができませんでした。
・多忙を極めた20代の青年は洋石版画に衝撃を受ける
そんな折、(1848〜1854年21歳〜27歳の間)に由一は1枚の洋製石版画に出会い、その迫真の3次元的リアリティに衝撃を受け、洋画(油画)の道を進むことを決意します。。。まさに衝撃的な西洋体験だったと言えるでしょう。
しかし、やっぱり時代はまだ洋画を学ぶには早く、由一は10年近くまともに洋画を学ぶ機会に恵まれませんでした。。。
その後1862年由一35歳の時、恩人である藩主の堀田正衡の渾身の推薦が通り、西洋の文化や美術が学べる洋書調所の画学局に入ることができたんですね。。そして川上冬崖の指導を受けるようになります。
この時の気持ちを由一は「天ニモ昇ル心地シテ」と書き残しています。。
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それでも当時の画学局は洋書である蘭書(オランダの本)から学んだことを見様見真似で、教えることしかできず、先生も学生も手探りの状態でした。。。
例えば、油画(油絵)を描くにしても支持体は紙を使い、その上に膠「にかわ」(動物の体内にあるゼラチン質。紙やキャンバスなどの下地と描画層を遮るための「のり」として使用されます)を引き、またその上から墨で描き、更にもう1度膠を引いた後に水彩で描き、ようやく最後に油彩で上描きして完成させるスタイルだったんですね。
かなり古典的で、複雑な過程を踏まないと描くことができませんでした。絵の具や筆、パレット、ナイフも全て手作りでした。。
そして由一は画学局でも満足して洋画を学ぶことができなくなっていきました。
西洋人から直接学ぶことを夢見ていたのです。。。
・由一、ワーグマンと出会う
チャールズ・ワーグマン作
「飴売り/Candy Vendor」 1887年 板に油彩 255㎜×350㎜
油彩・板 25.5×35.0
そんな由一に望んでいたチャンスが来ます。日本に西洋の洋画家がいることを知りました。そして1866年の夏に自作を携えて横浜に向かい、チャールズ・ワーグマンに出会います。
ワーグマンの画力の高さに度肝を抜かれ、帰る道のりも忘れてしまうほどだったと言われ、ついにワーグマンに弟子入りすることになりました。由一39歳のことでした。
熱意があれば何歳でも画家を志せることを僕たちに証明してくれていますよね。。。
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由一の油画に対する志は明治に入ってからも少しも途切れることなく、ますます高くなっていました。
そしてついにワーグマンと同居して毎日教えを頂きたいと東京府に出願までもしたんですね。その後も民部署や大学南校の下級官士として勤務するんですが、長続きせず、油画や絵画の普及を目指したい気持ちを絶えず持ち続けていました。
そして努力が実り、明治4年と5年には2年連続日本で絵画展に参加します。また6年にはウイーン万国博覧会に参加しました。
現存するこの頃の代表作品は「丁髷姿の自画像」と「花魁」が挙げられます。
「丁髷姿の自画像」1866〜1877年頃 油彩
「花魁」1872年 油彩
・由一、「天絵楼」を開塾する
明治6年になって由一はついに念願の画塾である「天絵楼」(のちに天絵社、天絵学舎に改名・明治17年まで続く)を創設しまし、後進の指導に当たりました。
これからの数年間が由一にとって最も充実した制作および教育活動の時期だったんですね。。
また天絵学舎では明治9年から毎月の第1日曜日に講師と生徒の油画を一般公開する月例展も開催され、広く一般に油画の存在が知れ渡るようになっていきました。ちなみにこの展覧会は明治14年まで開催されました。
天絵学舎では初心者はまず模写から始めるそうで、これはとても効率の良い上達法でした。しかし、この方法はのちに創設される東京美術学校(現在の東京藝術大学)で取り入れられることはありませんでした。
理由は個性がなくなる問題から来るものでしたね。
ただ僕自身は模写から入って、それから実物を描いても自由に応用させることができれば、特に問題はないと思っています。。
・由一フォンタネージと出会う
月例展を始めた明治9年の秋には、工部美術学校が開校し、イタリア人画家のフォンタネージが油画の指導を担当しました。これは日本での本格的な油画教育の始まりだったんですね。。
由一の息子である源吉も工部美術学校に入学し、フォンタネージに学んでいました。由一自身もフォンタネージのアトリエを訪れ、画論や制作を見たりして学んでいました。
そしてこれは由一の技法の上で大きな影響を与えたんですね。だだこれはそのまま画風がフォンタネージに似るようになったわけではなく、この時期から由一の作品の内容が技法と共に確実に充実してったことを意味します。。
この時期の代表絵画の1つが有名な「鮭」(1877年作)の油画です。現在3シリーズが残されていて、一番有名なものは東京藝術大学大学美術館に所蔵されています。
「鮭」1877年 板に油彩
フォンタネージからの影響としてはイタリア特有の半透明の薄い絵の具を何層も重ねるとい言う技法が挙げられます。この技法は「鮭」でも使われていますね。
おそらくこの技法はフォンタネージ以前には日本に持ち込まれなかっただろうと考えられています。
・由一の油画に対する理念と油画の特色
由一は西洋の油画の視覚や、技法を習得したんですが、それだけでなく、学んだことに捉われなすぎないための2つ理念があったんですね。
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1つは絵画の理論と実践は学ぶが、由一自身が持つ江戸の美意識を捨てることなく融合し、活かしていくことです
これはこの後の日本美術の主流とはなリマせんでしが。というのも印象派の影響で、直感的で材料の保存に拘らない絵画が主流となったからです。
由一のような考えがある程度重要視されるには、100年を待つ必要がありました。。。
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2つ目は油画を広く一般に理解され、普及させたいとい言うことです。
そのために由一は「天絵学舎」を創設し、学びたい人を増やして広く一般公開することを精力的に行いました。また絵の内容も人物や自然をわかりやすく、時には物語性を含ませた風景画などにも挑戦したりしました。。
油画の特色として4つ挙げられます。
1緻密で堅牢(けんろう)な絵肌
由一は西洋の古典洋画の順序やオイルの配分を守りながら制作をしていたため、非常に科学的で保存に適した強靭さ、ツヤの豊かな画面などが絵の魅力ですね。
2卓越した質感表現
由一は静物画や風景画を多く残しましたが、特に静物画は質感の描きわけや表現に適したテーマで、由一の「鮭」の作品を讃えた証言記録が残っているほどです。。
3表情豊かな点景描写
由一の静物画や風景画では迫真的な写実を見せてくれるんですが、細かい描き込みは細やかな点描が表情豊かに使われていて、
僕自身、実際に由一の作品を見た時は長さが異なる筆致が巧みに重ねられていることがよく伝わってきたことを覚えています。
4日本家屋を前提とした大きさ
由一の作品ははっきりと日本家屋の大きさに合わせて描かれています。具体的には欄間(らんま)や床の間に飾ることを前提としていますね。。実際由一の作品は書院の欄間に掛けられていました。
「月下墨田川」1881年 油彩
・由一、金刀比羅宮で滞在制作をする
明治10年代に入って、由一はより一層多くの作品を描くようになり、天絵学舎の経営に尽力しました。展覧会にも精力的に参加し、知名度を上げていきました。
13年末から14年初めにかけて由一は香川の琴平(ことひら)で過ごし、「琴平山遠望」を制作します。その後、琴平では数々の由一の作品が収蔵されるようになりました。
由一は琴平での滞在制作で地元の神社である金刀比羅宮(ことひらみや)から天絵学舎の運営資金を得ることに成功したんですね。
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僕は金刀比羅に行ったことがあるんですが、そこでは27点もの由一の油画作品を見ることができます。
8割の作品は保存状態が非常によく、残り2割もひび割れが入る程度で、色もそこまで変色がないんですね。。100年以上たった今もなおその輝きを放ち続けています。
では金刀比羅に展示してある作品をいくつか紹介します。
「鯛」1879年 油彩
「浅草遠望」1878年 油彩
「洲崎」1878年 油彩
「江ノ島図」1873〜1876年 油彩
「墨堤桜花」1877年 油彩
・由一の功績のまとめ
晩年の明治15年から欧風化に対する反動が社会全体で目立つようになり、美術界も例外ではありませんでした、、、
展覧会では油画の出品が拒否されたり、16年には工部美術学校も廃校になり、17年には由一の天絵学舎も廃校に追い込まれました、、、そして日本の美術を教育する東京美術学校が誕生し、新しい時代を迎えます。
しかしそれでも洋画家たちは「明治美術会」を結成し何とか生き残り続けました。
高橋由一はこの時代の流れを変えることはできないまま病に倒れます。その時に今までの業績を回想し、息子がその内容を「高橋由一履歴」として書き残し刊行しました。。現在も由一の主な伝記はこの履歴から読むことができます。
そしてこれに続いて、由一は旧天絵社社中の主催による洋画沿革展覧会で日本洋画の祖司馬江漢、川上冬崖、フォンタネージの肖像と共に由一の肖像が原田真次郎によって描かれ、洋画道一途の業績が称えられました。
それからまもなく明治27年に由一は67歳の生涯を閉じ、渋谷区広尾の祥雲寺塔内香林院に葬られました。
では由一の残した功績を振り返っていきましょう。
<日本に古典西洋画「油画」を日本で最初期に習得し、広めようと挑戦したこと
<実際に日本初の油画塾を創設し、運営に成功したこと
<日本という環境でも油画が長期的に保存可能であることや技法材料を研究し現在の私たちの絵画制作に貢献していること
以上のことが挙げられます。
現代の僕たちは画材や制作環境にとても恵まれています。学んだり、取り組もうと思えばいつでも先生や先人たちの知恵を借りることができるようになりました。
だからこそ、感謝してより充実した制作や学びを得たいものですね。。
今回も最後までお読み頂きありがとうございました。また次回の記事でお会いしましょう。楽しい1日をお過ごしください。