どうも!Houichiです。元美術予備校講師で、絵を描いたり、YouTubeで動画を配信しています。
美術や絵を愛する全ての人のために発信します。
フェルメールの絵画作品はここ数年、かなりの数が日本で展示されるようになりました。これは世界でもまれなことで、それゆえ日本人にとって親しみのある画家だと思います。
一体彼の人生においてどんな物語が生まれ、どんな絵画を残してくれたのか見ていきたいと思います。。
目次
・寡作でも傑作が多い画家の生涯とは?
・名画「真珠の耳飾りの少女」の魅力とは?
・フェルメールの贋作者がいた!?
・寡作でも傑作が多い画家の生涯とは?
ヨハネス・フェルメールが生涯に描いた作品は決して多くなく、確定されている作品は37点しかないんですよね。同じ17世紀の巨匠であるレンブラント と比べるとかなり少ないです。
また生前の評価もレンブラント と比べるとかなりの差があり、レンブラントはオランダ全国で評価され、売れっ子であったのに対し、フェルメールの評価は主に地元に止まっていて、大きく評価されたのは死後200年たった後のことです。。。
ではまず初期の頃を見てみましょ〜。
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<オランダの小さな都市デルフトに生まれたフェルメール
フェルメールは1632年10月31日にオランダの小さな都市デルフトに生まれ、比較的裕福な家庭で育ちます。
フェルメールが洗礼を受けた教会「デルフトの新教会」
父はアントワープ出身のレイニール・ヤンスゾーン・フォス(後にフェルメール姓を名乗ります。)母はティフナ・バルテンスです。二人は1615年にアムステルダムで結婚し、間も無くデルフトに移住しました。ヨハネス・フェルメールは二人の第二子として生まれました。
謎多き画家として知られていますが、そもそも17世紀のオランダ画家に関する細かな記録が残っていること自体がとても貴重なことなんですね。むしろフェルメールは情報が多い方と言えるみたいです。。
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父レイニールは生粋の商人で、画商、織物業、居酒屋兼宿屋など、幅広く事業を展開していました。そして美術品は主に裕福なブルジョワ層に販売していました。。
1640年の記録にはレイニールが当時数々の有名画家と交流があったと記されているので、幼い頃のフェルメールが絵画に触れやすい環境に置かれていたことは間違いないと言えますね。。
やがて15歳から6年間、画家、画商、ガラス職人、製本業者などで組織される「聖ルカ組合」によって認証された画家の元に修行にいきます。授業料もかなり高額であったと言われます。
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そして修行最後の年である21歳の春に1個上のカタリーナ・ボルネスと結婚します。更に「認定された画家のもとで6年間の修行」と言う規定を満たしたフェルメールは21歳で「親方画家」として組合への加入が認められました。
親方の特典として以下の3つが与えられますー。
1 自作への署名
2 デルフト市内での自作の自由な売買
3 弟子を持つこと
親方にならないと絵画が自由に販売できなかったんですねー。。厳しいー、、、
<父の死やアクシデントが起きた後
今のところ、フェルメールがお金持ちのボンボンで幸せな人生を送っているだけのように感じるかもしれないんですが、
実際はそれほど順風満帆とは行かなかったようです、、、
と言うのも画家修行の身であった20歳の時に父のレイニールがこの世を去り、フェルメールが家業を継ぐことになったんですが、すでに借金を抱えるほど経営が傾いていて、それを簡単に持ち直すことはできませんでした、、、
画家として独り立ちしたとは言え、まだまだ駆け出しだったため、とても絵だけで生計を立てることができなかったんですね。。
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また結婚にしても夫婦の宗派や家柄が違いすぎたため、義母の承諾を得るのに8年もかかってしまいました。
そして、結婚直後の1654年にデルフトの火薬庫が大爆発してしまう惨事が起きてしまいます。街は壊滅的なダメージを負ってしまい、デルフトは恐慌に見舞われました。
火薬事故を描いた作品
フェルメールは1660年までには義母の実家に移り住みましたが、このデルフト爆発事故が1つのきっかけだったのかもしれないですね。。。
これは義母がフェルメールの人間性を徐々に認めるようになり、両者の関係がよくなり、フェルメールが経済的に裕福な義母から金銭的な援助を受けながらなんとか苦境をしのいで行ったと言えるでしょうね。。
<物語画を描くもすぐに風俗画へ、1660代には数々の傑作が誕生した
フェルメールは初め、当時のヨーロッパで王道であったとされていた、宗教画や歴史画などの「物語画」を描いていて、現存する最初期の作品である「マルタとマリアの家のキリスト」1]が物語画にあたります。。
1]「マルタとマリアの家のキリスト」1654〜1655年頃
しかし、間も無く風俗画に転向し、庶民の日常生活を描写するようになりました。実は17世紀のオランダは市民が主役の座を勝ち取っていて、それ故に風俗画の人気が高まっていったと考えられているんですね。
こうしてフェルメールは私生活で苦労を強いられながらも、画家としての技術を着々と高めていき、才能が花開いていきました。。
街での評価も高くなっていくにつれて、先の火薬爆発事故で亡き人となったデルフトを代表する画家カレル・ファブリティウスの後継者とみなされるようになったり、史上最年少の29歳で聖ルカ組合の理事を務めたり、フランスの美術愛好家がフェルメールの作品を見にわざわざデルフトへ訪れたりと、その名は確かに世に知れ渡るようになっていったんですね。
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フェルメールの作品といえば、
明瞭で鮮やかな色調、計算し尽くされた構成、非常にわかりやすく単純化された細部の描写、などの特徴があげられます。また静寂で幻想的な光に包まれた室内画を主に描いていたのですが、故郷デルフトへの思い入れが感じられる「小路」2](1658年頃)「デルフトの眺望」3](1660〜61年頃)など、少数の風景画も残しています。
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そして1660年代頃には彼の代表作である傑作の数々が次々と世に送り出されていったんですね。
美術書や教科書に載ることが多い「真珠の耳飾りの少女」4]や2015年に初来日して話題になった「天文学者」5]なども1660年代中頃から後半にかけて描かれました。
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<制作に集中できなかった晩年と死後に「忘れ去られた画家」になってしまった
画家として有名になったフェルメールだったが、描いた絵が飛ぶように売れたわけではなかったんですね。。
残された作品があまりに少ないことから、美術市場向けに絵を描くことはほとんどなく、主にパトロン相手に描いていたと考えられます。また、義母と同居するようになってからは画家活動の傍ら、家業の手伝いをしていたと思われるため、絵だけで食べていけたわけではなかったようです。。
更に不幸が重なり、1672年にオランダはフランスに侵攻され、戦争が起こります。その煽りで経済が悪化し、フェルメールの絵は前にも増して売れなくなりました、、、
当時フェルメールは11人もの子供たちと暮らしていたのでいよいよ生活が苦しくなりました。必死に義母の不動産業や金融業の手伝いをするのですが、好転しません。。そして苦労に苦労を重ね、フェルメールは力尽き、1675年12月15日に43歳で亡くなります。
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晩年の作品の完成度が下がったとよく言われたりしますが、生活苦が原因だったと思われます。
後に作品は競売にかけられますが、次第に足取りが掴めなくなってしまい、ついにオランダ以外ではほぼ忘れ去られた画家となってしまいました。
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没後200年、フランスの美術評論家のトレ・ビュルガーがその存在を取り上げるようになり、再び脚光を浴びるようになりました。現在では西洋美術史を語る上では欠かせない一人となっているのは誰もが認めるものです。
しかし、彼の作品は決して、目に見える速度で世界に評価されたものではなく、画家として生きることの難しさを考えさせられます。。。
フェルメールが埋葬された「デルフト旧教会」
お墓
・名画「真珠の耳飾りの少女」の魅力とは?
この作品はフェルメールの代表作で、特に人気が高い絵です。潤んだ大きな瞳と少し開いた口元が、少女がまさにこちらを振り向いた瞬間をカメラでとらえたような印象を与えてくれます。「北方のモナリザ」とも言われるこの作品は少女の少ない色数と背景の黒のコントラストが見る人を惹きつけますよね。。
この素敵な顔立ちの少女は誰なのか判明していないんですが、トロニー(不特定人物の胸像)であると言われています。
耳飾りのハイライトも実際には光が当たらない位置にあるにもかかわらず絵作りとしてオシャレにアレンジしているところが魅力的です。。
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また技術面で見ていくと目や唇、耳飾りのハイライトの描写が白い点のように見えますよね。どこかカメラのピンぼけの写真特有の光を想像させるような、、、
研究者の間ではフェルメールがカメラ・オブスキュラーを使っていたと言う説が広がっていて、他の作品も同じような描き方をされていて、当時としても独特な雰囲気を醸し出しています。。
カメラオブスキュラーは暗いはこの中に穴を開け、そこから外の景色が反転して見えるらしいんですが、絵の下図は写り込んだ図像をなぞっていたのではないかと言われています。
・フェルメールの贋作者がいた!?
実はフェルメールの作品は色々な被害にあっていて、作品も認められるようになってからは、度々盗まれているんですね。
そんな中盗むのではなく、贋作を描いた猛者まで出てきます。。この内容は日本のテレビ番組でも取り上げられ、たちまち有名になったのではないかと思います。。
その犯行者とは、後に天才贋作者と呼ばれるようになる、ハン・ファン・メーヘレンと言う男です。
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彼は元々画家目指して地道に修行をしていたのですが、、20世紀のオランダで抽象絵画が主流だった当時、彼の古典的なリアリズム絵画はあまりにも不人気でした。しかし彼は諦めきれず、かつ道を踏み外し、フェルメールの贋作描き、それを美術館に売ることになります。
彼は結局捕まってしまいますが、不幸中の幸として、贋作で当時敵国であるドイツ・ナチスを騙したことで功績を讃えられ、刑を軽くしてもらうことができました。
一躍有名になり、将来の可能性を見出されたんですが、天はそれを良しとせず、釈放を待たずして、彼はこの世を去ることになります。
・まとめ
波乱に満ちたフェルメールの生涯と光の滴のような静寂を讃えるフェルメールの作品は対照的だとも言えますが、画家が私たちに見せてくれる手仕事には確かな瞬間の積み重ねが感じ取れると思うんですよね。
と言うことで、今回も最後までありがとうございます。また次回の記事でお会いしましょう。楽しい1日をお過ごしください。