画家モランディーはどんな人?絵の魅力と一緒に解説します。

どうも!Houichiです。絵を描いたり、絵を教えたりしています。

油絵具で描く絵画作品
油絵の具で描く絵画作品

土埃に塗れたろうとやビンをこよなく愛した画家ジョルジョモランディ、彼の生涯と渋く理性的な作品の魅力を探っていきたいと思います。

目次

・地元を愛する画家
・絵の方向性について
・モランディの静物画が辿り着いた場所

・地元を愛する画家

モランディは1860年にイタリアはボローニャに生まれ以後ほとんどの時間をボローニャとグリッツァーナでで過ごしました。

また人生初となる国外の訪問地であるフランスへ行くのに実に66年もかかったのです。。

モランディの家庭について少し話すと、父親は貿易商社に勤めていて、モランディは5人兄弟の長男でした。

 弟は幼少のころに亡くなり、それ以来モランディは生涯独身を貫き、3人の妹たち(アンナ、ディーナ、マリア・テレーザ)と共同生活を送ったんですね。

モランディは1907年にボローニャの美術学校の1つである「アカデミア・ディ・ベレ・アルティ」に入学し、1913年まで在籍します。今で言うと大学の学部から大学院まで進んだ年数を大学で過ごしたと言うことですね。

美術学校ではデッサンはずば抜けて上手だったんですが、途中からアカデミーの教育に飽きてしまって、成績が駄々下がりしていきます 苦笑。卒業時にはアカデミー創設以来の最低点を叩き出したそうです 苦笑

でもその分独自の創作に意欲的に取り組みを見せ、やっぱり自分を貫く姿勢が垣間見ることができますよね。。

モランディは生涯を通じ、特定の画家グループに属することはほとんどなかったんですけど、初期には未来派及び形而上絵画との接触が若干あったぐらいです。よく言えば自分軸のある人、悪く言えば引きこもり気味と言いますか。

孤高の画家と言われることが多いです。

個人的には自分軸を持った人と解釈していますよ、、、

さて、モランディは同じ1914年からボローニャの小学校でデッサン教師となり、1929年までこの職に就いていました。

モランディは1915年に軍隊に入隊します。だけれども、病気のためたった数週間で除隊します。

画家にとっては不幸中の幸いで、また制作に励むことができるようになりました。けれど、初期作品は気に入らなかったのか、ほとんど破棄したと言われています。。

1910年代終わりから1920年代始めにかけてモランディはジョルジョ・デ・キリコらのいわゆる形而上絵画の画家たちと接触し、モランディ自身もデ・キリコ風の静物画を残しているんですね。

また1922年にはフィレンツェで開催されたフィオレンティーナ・プリマヴェリーレ(フィレンツェ春期展)デ・キリコの紹介で出品します。更に展覧会のカタログにはデ・キリコがモランディを讃美する紹介文を書いたんですね。

1926年と1929年にはミラノにおけるノヴェチェント展に参加しました(「ノヴェチェント」は「1900年代」の意味です)。この「ノヴェチェント」はルネサンス の古典を模範として、1900年代のイタリア美術を復興させようという、反前衛、保守的美術運動であって、思想的にムッソリーニファシズムとつながりがありました。。

ただし、モランディ自身がファシズムに加担した形跡ないので良き画家ですよ。。

1930年には、ついにモランディも自身の卒業したボローニャの美術学校の版画教師となりました。そして第二次世界大戦の1956年までこの職に就いています。

1940年代からは夏をグリッツァーナ、それ以外の季節をボローニャで過ごすようになっていき、静物画とグリッツァーナの風景が主な絵のテーマになったんですね。

この頃から徐々にモランディの名は知られるようになり、さらに、1950年代からは国際的にも評価されるようになりました。

またこれによってヴェネツィア・ビエンナーレなどに精力的に出品するようになりました。

いよいよ1953年にはサンパウロ・ビエンナーレの版画部門で大賞を獲得し、1957年には同展覧会の絵画部門でも大賞を受賞したんですね。

そして晩年の活躍の最中、1964年に故郷ボローニャで亡くなります

生活の面倒はおもに3人の妹たちが見ていたと言われています。また1993年にはボローニャにモランディ美術館が設置されています。

ちなみに僕もモランディ美術館に行ったことがあり、モランディの作品に合うように、落ち着いて温かみのある美術館でしたね。いつまでも絵を見ていたい気分になりました。。

・絵の方向性について

絵の画題自体は静物画と風景画がほとんどですが、表現の方向性は初期と中年以降で大きな変化があります。また独自の方向性を確立した絵画作品に関しては「静寂」や「瞑想的」と評されることが多いです。

特に静物画は個性的でありふれたコップやロウト、瓶などを穏やかかつ少ない色数で、わずかに配置を変えながら描いた作品を多数残しています。

初期の1913年〜1915年はキュビズムに影響され、今よく知られているモランディの絵の方向性と大分違って見えますね。↓

これに関連する画家としてシャルダンとセザンヌの作品に感銘を受けていました。またモランディ自身「この二人の画家にはトロンプルイユ(騙し絵)以上のものがある」と言っています。

シャルダンの作品↑

セザンヌの作品↑

また1918年〜1919年にかけてはキリコの形而上絵画の様式に感化されて、バランスよく整然と並べられたマネキンや幾何形態、中に浮いた奇妙な形などを激しい明暗で描いています。↓

モランディの形而上絵画↑

こちらがキリコの作品↑ 影の雰囲気がよく似てますよね。

この形而上絵画には「現実の裏に潜む非現実を描く」という理念があり、これは後のモランディのスタイルが出来上がった後にも重要なテーマになります。

ただモランディ自身キリコなどの形而上絵画の描き方や視覚的効果が自分の肌に合わなかったみたいで早々にやめてしまうんですね。

1920年ごろからいよいよ試行錯誤の末に今よく知られている静物画の方向性にたどり着きます。。

・モランディの絵が辿り着いた場所

モランディの静物画や風景画には特に激しい主張や物語性、寓意性は感じられません。これには彼がモチーフそのものよりも「現実の裏に潜む非現実を描く」という考えがあったからです。

モランディはまた光とモチーフの配置自体にとても興味を持っていて、静物画からも特にモチーフの柔らかな光と、ユニークな構図に関心が向くのではないでしょうか。。

また彼は理想の光を出すために窓に布なども貼っていたそうですね。

そして風景を描くときも同じく光に焦点を当てて描かれていて細かい描写が省略されているのがわかるかと思います。物の説明を取り除き、あり方を再定義するかのように。。

このような制作の姿勢とこだわりは次第に認められ、今では20世期の特異な位置にいる画家として知られるようになりました。

まとめ

モランディのような自分を見つめる、自分のできることをひたすら続ける姿勢を身につければ、何かを成し遂げることができるかもしれないですよね。

最後までありがとうございます。楽しい1日をお過ごしください。


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