ミレイの描いた有名な絵画と彼の生涯をまったり解説

どうも!Houichiです。絵を描いたり絵を教えたりしています。

油絵具で描く絵画作品
油絵の具で描く絵画作品

ジョン・エヴァレット・ミレイはイギリスの画家であり、イラストレーターでもあり、ラファエル前派を創った人の一人です。

そんな彼はどのような人だったんでしょう。。

また物語の一場面を抜き出して私たちに叙情感やロマンティックな雰囲気を匂わせる絵はどのようにして生まれたのでしょう。見ていきたいとおもいます。

目次

・幼少期
・ラフファエル前派の誕生秘話
・オフィーリアの賛否理両論
・ミレイとユーフィミア馴れ初め
・中年から晩年の試行錯誤と活躍

・幼少期

ジョン・エヴァレット・ミレイは1829年にイギリスはイングランドの南部であるサザンプトンで馬具製造屋さんの息子として生まれました。比較的裕福な家庭に生まれ育ちました。

【ミレイの肖像写真】

幼少期は一時期ジャージー島にも住んでいて、体も弱かったため、教育は学校ではなく、主に母親から受けたそうです。。

加えて、この時代は学校教育よりもどちらかというと親が子供の学問と精神の教育担当であることが普通だったんですね。

そして幼い頃から絵の才能がいち早く輝きだし、それに気づいた両親はミレイが10歳の時にロンドンに引越し、ミレイに絵の教育を専門的に学ばせました。

そしてなんとミレイは11歳という当時最年少の若さロンドンのロイヤル・アカデミー付属美術学校に入学が許可されます

そして立て続けに16歳でロイヤル・アカデミーの年次展に入賞を果たします。

アカデミーでは年上のウィリアム・ホフマン・ハントダンテ・ガブリエル・ロセッティと仲良くなり、絵に対する考えや思いを互いに語り合う楽しい時間を過ごしました。。

・ラフファエル前派の誕生秘話

ロレンツォとイザベラ」(1849年)

しかし、入学してしばらく経った頃からミレイと彼の仲間の間でアカデミーに対する不満が募っていきました。

というのも、ロイヤル・アカデミーはすでに100年も前に確立した教育法を採用し続けていて、当時のミレイを含む幾らかのアカデミー学生たちにとって感覚のズレが生じ始めていたんです。。。

アカデミーの教育方針に対する不満は日に日に増していき、やがてミレイとハントやロセッティを含む仲間たちで、「ラファエル前派」を結成することになりました。

この出来事はミレイが19歳の時でした。。

さてラファエル前派とは保守的なアカデミーを基盤とするラファエロ (ルネサンス期の画家)よりも前の素朴なイタリア絵画の理想に戻ろうとする考えを理想とする一派です。そしてラファエル前派に思想的な面で影響を与えたのは当時の思想家であり、美術評論家であったジョン・ラスキンでした。。

ラファエル前派の作品はラスキンの「芸術は自然に忠実でなければならない」という思想を元にして作られていて、ミレイもこの思想を大切して制作に打ち込みました。

そしてミレイがこの新しい形式で描いた最初の作品が「ロレンツォ とイザベラ」(上記の作品)です。

もう一つ、ラファエル前派の絵の特徴として明るい色調が挙げられます。ミレイも鮮やかで鮮度のある色を多用していきました。

さて、20代のミレイの絵は称賛する人もいれば、批判する人もいて、鳴かず飛ばずでした。その中でも「両親の家のキリスト」はロイヤル・アカデミーで展示した際には痛烈な批判を浴びました。

両親の家のキリスト」(1849〜1850年)

それでもラスキンの力強い擁護もありなんとか活動は続けられていきました。

・オフィーリアの賛否理両論

オフィーリア」(1851年)

オフィーリアも当時のアカデミーでは批判がほとんどで、ラスキンも絵の美しさを称賛しつつもアイデアに関して疑問を示しました。当時にしては受け入れ難い革新的要素が多かったのでしょう。

しかしながら、20世紀にもなるとシュールレアリスムの画家ダリ によって再評価され、美術界からも受け入れられるようになっていきます。ある雑誌でダリは次のように述べています。 

ダリ

「どうしてサルバドール・ダリがイギリスのラファエル前派に花開いたシュルレアリスムに驚嘆せずにいられようか。ラファエル前派の画家たちは私たちにまばゆいばかりに美しく、それと同時に存在する最も理想的で、最も恐ろしい女性像を描き出して見せた。」  

これは堅苦しさから解放されつつある時代を表した言葉かもしれません。

また日本の作家である夏目漱石も著書の「草枕」の一節で  「余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察すると大分美しくなる。なんであんな不愉快な所を択んだものかと今まで不振に思っていたが、あれは矢張り画になるのだ。水に浮かんだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮かんだりしたまま、只そのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。」  と表現しています。

夏目漱石

漱石の影響により日本でも瞬く間にミレイの「オフィーリア」は人気を博するようになったんですね。

「オフィーリア」の制作手順いついてはまず背景を現地に行き、現場でスケッチと本制作を完成させ、その後にモデルをアトリエに呼び、湯船に浸からせ、実際に見ながら描いていたそうです。

とても繊細で、緻密な計算と手作業の賜物と言えます。。

・ミレイとユーフィミア馴れ初め

「ユーフィミア・ミレイ肖像画」(1873年)

ミレイとミレイの妻であるユーフィミアはもともと結ばれるには程遠い状況でした。

というのもユーフィミアはミレイを支持するラスキンの妻だったからです。

ミレイの才能を見出したラスキンはミレイをよく遊びに誘うようになていき、そこに当時ラスキンの妻であったユーフィミアも共にいたんですね。ミレイもラスキンの肖像を描いたり、絵のモデルにユーフィミアを登場させたりしました。

グレンフィンラスのジョン・ラスキン」(1853〜1854年)

そのうちユーフィミアはミレイに惹かれるようになっていきます。やがてユーフィミアはラスキンとの結婚を実質の無いものとし、婚姻無効の訴訟を起こしました。

これは当時恥ずべき行為とされていたのですが、それぐらいユーフィミアにとってラスキンとの結婚は理想とは程遠いものだったのでしょう。

そしてミレイが26歳の時にユーフィミアと結婚を果たします。

ラスキンもユーフィミアの思いを理解したのか、ミレイを否定せずその後もしばらくミレイの活動を指示します。

やがてミレイとユーフィミアとの間に8人の子供が授かり、幸せな日々が続きます。

しかし一方で生活費がより必要になっていきます。そこでミレイは自分の作品が売れることの必要性に迫られ、制作時間の短縮や作風を大衆受けする方へと舵を切ります。

・中年から晩年の試行錯誤と活躍

絵の方向性を変えたことでよく売れ、ミレイにとって制作は充実したのですが、批評家の間では評価が下がっていきました。

これが原因でラスキンからも見放されてしまいます。

しかしながら、大衆に指示される作品はアカデミーには受け入れられ、34歳の時には「初めての説教」で最も人気のある作品として選ばれ、正会員として選ばれました。

初めての説教」(1863年)

これ以降イギリスでは少女画ブームが巻き起こります。。

また当時の兵士とその家庭の様子をリアルに描き出し、大衆の支持を得た「ブラック・ブランズウィッか」も有名です。

ブラック・ブランズウィッカ」(1860年)

もちろん、ミレイは子供好きで、たくさん絵に登場させました。その中の一枚である「シャボン玉」は後に石鹸の広告にも使われました。ただし、本人は不本意に思っていたらしいですね、、、

シャボン玉」(1886年)

晩年67歳のミレイはロイヤル・アカデミーの会長に選ばれます。晩年にして、画家としての地位を不動のものとし、、、そしてその年の8月に安らかな眠りにつきました。

まとめ

ミレイは鮮やかで明るい色調を用いて美の不確かさとはかなさを内包する作品を私たちに残してくれました。

さて、さらに多様性が増してきた現代で美のあり方はどのようにへ変化していくのでしょうか。

最後までありがとうございます。楽しい1日をお過ごしください。

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